『夏への扉』

2016.06.13

夏への扉SFはあまり好きではないのですが、評判が良いので読んでみました。原作が書かれたのは1956年ですから60年も前の本です。その割にはそれほどの古さは感じられません。訳されたのは1963年ですから、使われている名詞は大分古臭く感じる部分が有ります。例えば家事用のロボットは文化女中器(ハイヤード・ガール)という名前で出てきます。何とも古臭い。

とはいえ、自動製図機やテーブルに組み込まれた新聞閲覧器、ウォーターベッドやお掃除ロボットなど、作品中に出てくるいくつかは実用化されています。まあ、冷凍睡眠やタイムマシーンはまだ実用化されていませんけどね。

物語の舞台は、1970年です。一匹の猫ピートと飼い主のダンは11の扉(ピート専用の扉を勘定に入れれば12)のある家に住んでいます。ピートはいつもドアを一つ一つ巡り、ダンはピートの後についてドアを開けます。ピートはいつも夏への扉(ピートが好きな快適で明るい夏に通じるドア)を探しています。ダンはピートが諦めるまで辛抱強くピートの後をついて歩きます。
ダンは発明家であり、文化女中器を発明し、これを製造し、販売する会社を創ります。発明と製造はダンが受け持ち、営業は親友のマイルズが受け持ちます。そこに才気あふれる女性、ベルが事務員としてやってきます。事業は順調でした。しかしあるとき、ダンはマイルズとベルの裏切りによって会社を追い出されてしまいます。そして結婚の約束を交わしていたベルはマイルズの元へ去っていきます。失意のダンは冷凍睡眠で30年後の世界にやってきます。最初は年老いたベルを見返すために。しかし実際にはベルにゾンビドラッグを注射され、邪魔者を追いやるためにベルの手によって冷凍睡眠で30年後の2000年の世界に送られてしまいます。
冷凍睡眠から目覚めたダンは、巨額の価値を持っているはずだった自社の株券が無価値になってしまったことを知り、自暴自棄となり犯罪者として裁判にかけられてしまいます。運よく裁判長の紹介で自動車解体の職を得ます。そして、2000年の世界で活躍するいくつかの商品について知識として吸収します。
そして、2000年において安価になっていた金でできた針金を体に巻きつけ、封印されていたタイムマシンに乗りこみます。ダンは再び1970年に戻ってきます。体に巻き付けていた金を元手に発明に打ち込み、いくつもの特許を取り、これを売る会社を立ち上げます。会社の運営を知り合いに任せたダンは再び冷凍睡眠で2000年に戻ってきます。同じく冷凍睡眠をしていた幼馴染のリッキィーを向かえ、結婚します。

年老いた猫のピートは相変わらず夏への扉を探し、ダンは相変わらずピートの後についてドアを開ける日々を過ごします。

結局、夏への扉が何を表すのか、私には解りませんでしたが、SF嫌いの私にも十分楽しめる物語でした。訳者によるあとがきで、訳者自身この作品が最高のSF作品だと書いていますが、きっとそうなのでしょう。

『森の生活 – ウォールデン』

2016.06.02

森の生活『森の生活』ですが、極めて難解な本です。そして長大です。勿論翻訳ものですから、翻訳者の意向によっても翻訳には差異はあると思います、ですが、総じて『森の生活』は難解に感じます。恥ずかしながら原文で読みこなす語学力はありませんが、原文でもかなり難解であるらしいです。訳者である神原栄一氏によるあとがきにも「・・・正直なところ、理解の容易でない箇所もある。」と、書かれているほどです。しかし、神原氏の翻訳には翻訳者の判断による注釈も多く挿入されており、そういった意味では丁寧な翻訳と言っていいでしょう。

本書は著者であるソロー氏が1845年から1847年にかけて米国マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン池に住んだ時の生活について書かれたものです。現金収入を得るために豆畑を作り、住むための小さな家を買い取った小屋からはぎ取った廃材で作り、冬になれば暖炉を作り、時に魚を釣り、時に耕し、時々訪れてくる者をもてなし、そんな生活を送る中で観察し、思索した事柄を一冊の本にまとめたものです。

ソロー氏はインド哲学や古代中国の詩歌にも明るかったようで、随所にこれらが引用されています。

著者はその時既に都市に蔓延していた拝金主義に異論を唱え、その不自由な生活に批判的な目を向けています。例えば、「・・・家具がそうだ。あのような荷物を見ても、私はそれがいわゆる金持ちのものなのか貧乏人のものなのか、どうしても区別がつかない。いつもきまってその持ち主が貧乏人のように思われてくるのだ。事実そういう物をたくさん持っていればいるほど貧しいものなのだ。」と説いています。

その一方で、自然の森、そしてそこに生きる動物たちには尊敬と憧憬の思いでこれらを賛美しています。著者はそれまで見たことの無い飛び方をする鳥をじっと観察します。「奇妙な、こもったような鳴き声を立てて何度となく舞い上がると、凧のようにまた何度ももんどりうってその自由な美しい降下を繰り返し、まるで大地に一度も降り立ったことがないかのように大きく降下しては姿勢を立て直す。この宇宙に仲間というものはいず・・・ただ独り大空で戯れているのだ・・・また、自分が戯れているその朝と青空以外何もいらない、といった様子であった。寂し気なところがなく、むしろその下方に広がる大地すべてを寂しく見せていた。そのタカを孵した親鳥、親族、そして天なるその父は何処にいるのだろう?空の居住者よ!」。恐らく著者は自分を空に遊ぶ鳥に投影していたのではないでしょうか。
『森の生活』は何十年も前から中途半端に読んではそのまま放置し、気が向けばパラパラと眺めてみたりしていて、通して読んだのは恥ずかしながらこれが最初でしょう。それもそのはず、『森の生活』は十八の章から成っており、最初の章は「経済」という副題の極めて退屈でだらだらとした章でこれのおかげで挫折してしまうんですね。これから読む人にちょっとしたアドバイスを。最初の数章はすっかり飛ばして読むことをお勧めします。それは、ソロー氏を理解する為にさほど重要ではないのですから。

時々読み返してみたい本です。これまでそうしてきたように。

『異類婚姻譚』

2016.05.11

女優として異類婚姻譚も活躍していらっしゃる本谷有希子氏の作品で、芥川賞受賞作品である『異類婚姻譚』を読んでみました。芥川賞受賞作品で多くみられる、今風な言い方をすればファンタジーに分類される作品なのかも知れません。

結婚した主人公の日常を描いた作品なのですが、同じ集合住宅の別棟に住むキタエとの交流、似た者夫婦をめぐる話、そして飼い猫を山に捨てに行く話、最後は『異類婚姻譚』の題名のとおり、実は夫が花に化身してしまう話が盛り込まれています。ファンタジーノベルとしては緊張感も有り、全てのエピソードできちんと結末が明かされており、そういった意味ではモヤモヤ感のない非常にすっきりとした作品と思います。同書には、『犬たち』『藁の夫』等の短編も収録されています。特に『犬たち』は非常に良くできた作品です。見知らぬ場所で犬に囲まれて暮らす主人公。犬に注意せよとビラを撒く町の人たち。そして最後に主人公は・・・。非常に良くできた作品と思います。『犬たち』は映像化したら面白い作品になりそうですね。」

全体を通じ、ファンタジー色が強い作品を収めた本ですが恐らく呼んだ人の評価は大きく別れると思います。荒唐無稽なおとぎ話を楽しめるか否かが鍵でしょうね。そういった意味では、ある程度あらすじを知ったうえで読むと良いかも知れません。

 

『ゼラール中尉』

2016.05.10

菊池寛氏の代表作と言えば、『恩讐の彼方に』を一番に推します。一方、あまり知られていない作品がこの『ゼラール中尉』ではないでしょうか。非常に短い作品なのですが、どうもモヤモヤが残ります。

話はベルギーの都市、リエージュを舞台にしています。リエージュの砦を守る軍人の一人、ゼラール中尉は町で知らぬ人はいない人気者です。子供には菓子を与え、女には花を贈ります。誰にでも親切で優しい人物です。しかし、不思議と彼と深く付き合う者はいませんでした。それは、ゼラール中尉の我の強さに有りました。同僚と酒場に行けばゼラール中尉は一方的に料理を決め、飲む酒を決めすべてを自身で決めてしまいます。
そしてある日、ゼラール中尉は同僚のガスコアン大尉とドイツ軍の侵攻について激しい言い争いをします。侵攻が有るというゼラール中尉と協定によって守られているので侵攻は無いというガスコアン大尉。言い争いは、ゼラール中尉の「時が答えを出す」という言葉で締めくくられます。
そして、数日後ドイツは侵攻を始めます。ゼラール中尉はドイツ軍の放った砲弾に倒れます。しかし、ゼラール中尉は助けに来たガスコアン大尉に向かって数日前の言い争いを持ち出し、自分が正しかったと主張します。ガスコアン大尉はそれを腹立たしく思い、ゼラール中尉を放置してその場を離れようとします。瀕死の傷を負ったゼラール中尉はそうする間にも意識を失ってしまいます。一度は立ち去ろうとしたガスコアン大尉ですが、ゼラール中尉に対し憐れみを覚えます。

自分の考えを正しいと信じ、曲げることなく堅持し続けたゼラール中尉と、時に迎合もするガスコアン大尉の性格の対比を描いた作品ですが、どうにもモヤモヤします。結果として正しい認識を持ち続けたゼラール中尉が砲弾に倒れ、誤った認識で侵攻に対する十分な備えを怠ったかも知れないガスコアン大尉が一度はゼラール中尉を見捨てようとします。

作者はどのような感情を読者に持たせたかったのでしょうか。謎です。

『春宵十話』

2016.05.09

『春宵十話』という随筆集は、数学者の岡清氏によって書かれたものです。数学者でありながら、本書を始め何冊かの随筆集も上梓されており、また、本書でも書かれている通り、絵画や音楽にも造詣が深く、実に多彩な人であったようです。

岡氏は本書で度々人の動物化を憂いており、先ずは情操教育こそ重点的に行うべきであると説いています。そして、一定の分別が身についてから初めて自然科学を学ばせるべきであるとも。このような教育論は、岡氏が教育者であった為に近代の詰め込み教育に一石を投じたかったのでしょう。

本書は、その内容を非常に多岐にしており、一言で評することは極めて難しく、また、宗教に関する記述については難解でもあります。ただ、岡氏の自然への造詣は極めてストレートで印象的です。岡氏が数学という学問の有用性について説いた非常に印象的な言葉が有ります。その一節を引用します。

”よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。”

こういうのを自然体というのではないでしょうか。自分に正直に生き、そして数学という分野で大きな功績を残せたのも正直に自然体であったからではないでしょうか。

『堕落論』

2016.05.09

坂口安吾氏の作品は、なんというか独特の世界観のようなものが有って、妙に身につまされる作品が多いです。誤解を恐れずに言えば、坂口安吾氏は、所謂文豪では無くどちらかと言えば落伍者に近かったのではないでしょうか。このあたりは、『白痴』や『黒田如水』といった著書に顕著に表れているように感じます。

さて、『堕落論』ですが、やはり坂口安吾氏ならではの視点で書かれた云わば随筆のようなものです。先の大戦後に書かれた作品で、敗戦によって日本は堕落したのではなく、寧ろ自然と堕落する民族であるから武士道が生まれ、堕落することを戒めてきたと説いています。先の大戦に関しても同じく、堕落する民族であるから厳しい軍規を設け、「生きて虜囚の辱を受けず」という精神を植え込んだとも説いています。そして、人間本来の生き方を取り戻すために、寧ろ堕落すべきではないかと説いています。

『堕落論』の中では、四十七士が巷間語り継がれているものとは異なり、実際には非常に無様な最後を遂げたことも書かれており、恐らくは忠という名の虚飾は寧ろ無様である事を言外に語っているのでしょう。先ずは堕落し無様であっても虚飾の無い人間らしい正直な生き方をすべきであると説いているのでしょう。

『堕落論』を読んでいて思ったのですが、ソローの『森の生活』との沢山の共通点を見つける事が出来ました。ソローは生涯を通じて正業に就くことが無く、人間らしい生き方を求めて2年間森での生活を送り、100年以上も色あせない見事な著書を残すわけです。『堕落論』はソロー氏の思想をよりコンパクトに密度濃く再構築したものの様に私は感じました。

 

久しぶりに更新してみる

2016.05.09

4月はとにかくやる事が沢山で忙しかった。その中でも一番大きなトピックは引っ越しだろう。何十年も住んだ家を抜け出して、引っ越すわけだからそれこそ沢山の荷物であふれかえっていて、これを整理して、恐らく使わないであろうものを捨てるだけでも大変な事でした。

一年間一度も使わなかったものは、次の一年も使わない。三年使わないものは二度と使わない。と、言われるが、まさしくその通りでビデオデッキやらカセットデッキなどは既に過去のもので、恐らく使わないだろう。CDプレーヤーだってもう過去のもので、パソコンで取り込んでおしまいという時代になってしまった。

引っ越し先は、ちょっと郊外の方です。夜は驚くほど静かで、とにかく夜はぐっすり眠れます。これが引っ越しの一番の利点でしょう。集合住宅というものに初めて住んでみたのですが、当たり前ですが住みやすく作ってありますね。特に、ゴミの集積所が有るのは極めて便利です。今までは、ゴミだしの日を決めてゴミを出していたのですが、集積所が有ればいつ持って行ってもいいわけですからね。

それから、やはり住宅街という事もあってか、徒歩5分圏内に2件のスーパーが有って、うち一件は24時間営業。すこぶる便利ですね。という事で、今回の引っ越しは私的には結構成功というかなかなかうまい具合に進んだと思います。住環境もだいぶ良くなりましたしね。

『がんばらなくていいんだよ』

2016.03.16

がんばらなくていいんだよ7年間を掛け、山中を4万キロに渡って巡拝する荒行である千日回峰行を2度満行した行者である酒井雄哉氏の『がんばらなくていいんだよ』という、いかにも癒されそうな本を読んでみました。恐らく、編集者が酒井氏にインタビューをし、酒井氏が語った言葉を書き起こしたものと思われます。全体的に平易な口語調で記されており、語り掛けてくれているように感じられます。

千日回峰行という厳しい修行を行った者にしか至る事の出来ない高みから語り掛けられているように、あらゆる欲、妬み、怒り等の負の感情から自由で有れと説いています。そのためには、時に逃げ、時に忘れ去り、時に無関心であることも必要であるであると語っています。とある先生の言葉を借りるならば、酒井氏は厳しい修行によって高い抽象度を持つことが出来たという事なのでしょう。

筆者は仏門の人でありますが、その考え方は仏教の教えに囚われることなく、人として身に着けなければならない事柄ばかりです。本書の中で度々”恕”という言葉がつかわれます。論語を学んだ方であればご存じでしょう。かの孔子も”恕”という言葉をしばしば使っています。簡単に言えば”恕”とは相手を慮る事です。酒井氏は思いやりという言葉で”恕”の意味を説いています。

本書の冒頭、酒井氏は情報が氾濫し、そして情報を得ることばかりに躍起となり、実践をしない世の中になっていると嘆いています。

さて、とかく住みにくい世の中になってしまったものだと思う今日この頃ですが、酒井氏が本書で語った”恕”を以って指針とし、また結末に語っている”一日一生”の思いで、毎日生まれ変わるような気持ちで生きて行けば、この世は少しだけ住みやすくなるのかも知れません。

酒井氏のような徳の高い僧侶というのは宗教という枠組みを超えて、広く語り掛けることで世の中を良くしてくれる存在なのでしょう。

『苦役列車』

2016.03.10

苦役列車映画化されたからという訳ではないのですが、西村賢太氏の『苦役列車』を読んでみました。恐らく主人公の北町貫太という名前は作者自身の名前から容易に連想できることから、作者自身の事を下敷きとして書かれた小説であることは容易に想像できます。

主人公の北町貫太は父親が起こした犯罪が切っ掛けとなり、住み慣れた場所を離れ、進学もあきらめ日雇いの港湾労働者として働いています。しかし、根っからの怠け者の貫太は日払いで渡される日当をさっさと飲み食いに使い、金が続か無くなると働きに出、金が有れば仕事を休むという自堕落な生活を送ります。しかし、とある日、いつもの仕事先で同い年の日下部が同じ仕事場にやってきます。同い年という事も有ってか、二人は会話を交わし、仕事からの帰り道に食事を一緒にし、酒を酌み交わすようになります。自堕落な貫太は勤勉な日下部に導かれるように毎日出勤するようになります。相手の立場を推し量る事ができない貫太は日下部とその彼女と野球を観戦し、酒を酌み交わします。しかしそこで貫太は日下部に暴言を吐き、以降段々と疎遠になっていきます。

日雇いの港湾労働者という最底辺の労働者、そして一万五千円の家賃も払えぬほどに計画性のないどうしようもない貫太の姿を描いた物語です。何とも救いようのない若者の姿を描いていますが、物語は貫太が若かりし頃の特に日下部の事を回想している場面で終わります。恐らくは作者自身が自分の若かりし頃を回想して書いた物語なのでしょう。

どうしようもない若者の姿を描いているのですが、貫太のような若者がいてもいいじゃないか。そして、貫太のような生活もそれなりに居心地が良いのではないかと思えてきます。どうしようもない物語ですが、そんな生き方も有るよなと思わせる魅力が有ります。恐らく貫太のような者には近づきたくはないのだが、そばにいたらそっと見守りたくなる、不思議な魅力を感じます。そんな不思議な魅力のある物語です。

『天才』

2016.03.10

天才『天才』という題名に惹かれて読んでみました。これまで恥ずかしながら石原慎太郎氏の著作は読んだことがありませんでした。『太陽の季節』も映画では見たことがあるものの、原作は読んでいません。普段の石原氏の言動から何となく難しい言い回しの多い難解な作品かと想像していたのですが、『天才』は実に痛快で余韻もある極めて上質な作品でした。

この作品、読み始めた途端違和感を感じました。一人称で書かれた作品であるにも関わらず、”自分”に関しての説明が全くなく、いきなり物語が始まります。すごくインパクトのある書き出しです。勿論文中の”自分”は田中角栄元総理大臣であることを読者は知っているのでバッサリと潔いほどに説明じみた前置きを省略した著者の老練の力量は見事です。

物語は、”自分”の少年時代から始まります。成績は優秀であったにもかかわらず貧しさから進学をあきらめ、東京で下働きをしながら夜学に通い始めます。やがて飯田橋に田中土建を立ち上げます。そして、選挙資金を援助する代わりに立候補を打診され、2度目の選挙で見事国会議員になります。

資金調達力と確かな先見性を武器にあれよあれよと総理大臣にまで上り詰めます。

その後ロッキード事件により総理大臣を辞任した後も影のキングメーカーとして政界に君臨し続けるのですが、免責証言というそれまで日本では認められていなかった手法を取り入れた裁判によって総理大臣経験者としては初めて実刑判決を受けてしまいます。本書ではロッキード事件に関して多くの紙数を割いています。そして、著者はロッキード事件は、日中国交正常化で石油の利権を失ったアメリカによる報復と解しています。それは、免責証言という日本では例のない手法を裁判の過程に持ち込んだことでも明らかです。

さて、本書ではロッキード事件で失脚し、病に倒れた後の”自分”の心境や妾宅の事も丁寧に書かれています。勿論、これらは著者による創作なのですが、著者の田中角栄氏に対する尊敬の念が穏やかな結末とすることで花を添えているのではないでしょうか。名著です。

堀江貴文著『本音で生きる』

2016.03.10

本音で生きる堀江貴文氏の『本音で生きる』という本を読んでみました。ホリエモンこと堀江氏はとにかく話題に事欠かない人で、史上最年少で株式上場を果たし、数々の企業買収でその業容を拡大し、テレビ局買収に動き、プロ野球球団買収も画策しました。このような行動を世間は無謀と評し、一時は犯罪者として収監されました。しかし、普通の人間であれば一生の終わりと感じるような逆境から見事に復帰し、実業家として、タレントとして、そして作家として活躍されています。このようなバイタリティーの原資は何なのか、その答えが本書には書いてあります。

一般に成功者と言われている人が書いた本は沢山あるのですが、共通した事柄があります。本書にも当たり前のようにその秘訣が書いてあります。その秘訣とは沢山の情報です。

例えば目の前に川が有ったとします。この川を渡らなければならないとしましょう。見える範囲に橋はありません。こんな時、情報を持たない人ならば黙って引き返すでしょう。また、ある人は橋が有るだろうと”あたり”をつけて橋を探して歩くでしょう。地図という情報を持っていれば川上川下どちらに行けば橋が有るか探し出すことができるでしょう。情報が有ればバス停や駅を探すこともできるでしょう。タクシーを呼んでも良いかも知れません。舟をチャーターして渡る事もできるかも知れません。

つまり、情報が無ければあきらめてしまう事も情報さえあれば簡単に解決できます。つまり、沢山の情報を仕入れることであきらめることなく前に進むことができるのです。

さて、本書で作者は暗に体面を気にせず自分らしく生きろと言っています。体面ばかりを気にしてあきらめていることが沢山あるのではないでしょうか。そんなことに時間を費やすなら、自分勝手に好きなことをしろと作者は述べています。そのためには沢山の情報を持つべきだとアドバイスしています。

至極真っ当な事を著者自身の体験を添えて著者はこの本で語り掛けています。著者の本はどれも好きなのですが、この本もとても好きです。

『残り全部バケーション』

2016.02.29

残り全部バケーションタイトルに惹かれて読んでみました。伊坂幸太郎氏らしい作品です。溝口と岡田という二人のチンピラにまつわる物語です。ネタバレになるといけませんので、内容については割愛しますが、登場人物の気質や登場人物同士の絡み合い、そしてちょっとした仕掛け等、『ゴールデンスランバー』に何となく雰囲気が似ています。

ただ、『残り全部バケーション』は連作短編の形式です。収められた5編の内4編が短編として発表されたもので、謎解き編となっている最後の1編が書下ろしとなっています。

この作品は、最後に一つだけ明らかにならない謎が残されているのですが、これについては読者が解釈すれば良いのだろうと思います。私は、溝口も岡田も残り全部バケーションになったんだろうと解釈しました。

伊坂幸太郎氏らしい仕掛けの多い、楽しめる作品でした。

ブラックアウトしてしまいました

2016.02.24

このブログを動かしているサーバの使用料支払いを失念してしまい、一時的にアクセス不可となってしまいました。直ぐに気が付きましたので、半日程で復旧したのですが、これで3回目ですね。来年は気を付けなければ。

『蛇を踏む』

2016.02.08

蛇を踏むこういう小説をジャンル分けするとファンタジーとなるのだろうか。主人公がある日蛇を踏むところから物語は始まる。踏まれた蛇は主人公の母親と偽った人間の姿をして現れる。食事の支度をし、夜は蛇の姿に戻って天井に張り付いて眠る蛇との生活は何とも奇妙である。それにもまして、主人公の職場であるカナカナ堂という数珠屋は奇妙である。

作者自身があとがきに「うそ話」と書いているように荒唐無稽な寓話である。同録の『消える』『惜夜記』も同じくうそ話である。さすが芥川賞受賞作だけあって、『蛇を踏む』の独特の世界観はなかなか面白い。ただ、たたみかけるような結末は少し乱暴な感じを受けた。

このような、ファンタジーというか寓話というかは、特段好きではないが、嫌いな訳でもない。しかし、小説というものを突き詰めるとこのようなものになるのかなあとは思う。ドキュメンタリー以外は作り話という身も蓋もない極論を持ち出せば、小説は作り話で、それを突き詰めるとファンタジーとか寓話になってしまうのかも知れない。

さて、『蛇を踏む』だが、今一つ結末が好きになれない。結末がもっと丁寧に描かれていればもっと楽しめたのだが。書き出しが秀逸なだけに残念に思う。

『草枕』

2016.02.05

”智に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。”という文から始まる広く知られた作品です。著者は文豪夏目漱石氏です。最晩年に書かれた『明暗』と比較するとかなり理屈っぽく、読者の事を案ずるよりも前に、作者自身の欲に従って書かれたように感じます。

作者自身が那古井の小天温泉に逗留した体験をもとに創作された作品と言われています。主人公である絵描きが、絵を描くために訪れた那古井の宿で知り合うことになった那美をモデルに絵を描くことにします。しかし、どうにも那美の顔が上手く描けない。逗留中、度々那美の奇矯な行動に絵描きは翻弄されるのであるが、別れた夫が去ってゆく様を偶然に見ることとなった那美の表情、これこそが絵描きの欲していた表情であったという結末にいたります。

夏目漱石氏の作品を読むたびに思うのですが、主人公の生活感が殆ど感じられません。『明暗』では日々の生活も借金に頼るような生活で有りながら、主人公は病気療養の為に旅に出てしまいます。『明暗』は断筆となってしまったため、何日間療養の旅に出ていたかは知る由も有りませんが、二三日という事はないでしょう。『草枕』では少なくとも6日間、『心』に至ってはひと夏を旅先で過ごすわけなのですが、実に優雅に描かれています。明治の人たちはこんなにも優雅な生活をしていたものなのでしょうか。どうにも理解できません。

しかし、志賀直哉や太宰治の作品も優雅な生活が描かれていますね。太宰治の『斜陽』に至っては、ほんとに斜陽なのかを疑ってしまいます。

『あの日』

2016.02.03

あの日露悪的とは思いながらも、小保方晴子氏の著した『あの日』を読んでみました。

一言で言うならば、小保方氏は純粋だったのでしょう。純粋に実験を愛し、研究者としてずっと実験をしていたかったのでしょう。その思いは文面から痛切に感じられました。しかし、STAP細胞の発見により、その過程でボタンのかけ違いが生じてしましました。

小保方氏は、ラットの細胞に特定の刺激を与えることでOct4という多様性を示す遺伝子を持った細胞が出現ずることを発見しました。後に理研で他者によって行われた検証実験でも多様性を示す遺伝子を持った細胞の出現は有意な確率で確認され、これにつては現在でも理研のホームページで確認できます。しかし、様々な助言という名の圧力により、幹細胞の生成、そしてキメラと呼ばれるSTAP細胞の遺伝子をもったマウスの作成が求められます。しかし、幹細胞とキメラの生成に小保方氏は携わる事ができない状況に至ってしまいました。

自分の行っていない実験の結果についても発表者として発表せざるを得ない状況となり、自身で携わっていない実験の結果について再現性が無い事についての批判を矢面に立って受けなければならない立場に置かれてしまい、その結果研究者としての道も閉ざされてしまいます。抗いようの無い流れに唯々流され、批判にさらされ、やっと手にした研究者という身分も失い、反論の機会も与えられませんでした。

余りにも純粋すぎたのかも知れません。人を疑うという事が出来なかったのでしょう。不幸としか言いようが有りません。ただ、検証実験の結果が示しているように、STAP現象は有ったはずです。そして、安定して幹細胞の生成ができるようになれば、がん化のリスクが高いと言われているiPS細胞よりも有益かも知れません。

小保方氏には何とか再起をしていただきたいと思います。そして、もう一度日本では無い場所で研究者として復帰できるチャンスが与えられることを願います。

この本が契機となってSTAP細胞の研究が復活することを切に願います。闇に葬ってしまう事こそが損失でしょう。

『風転』

2016.02.02

風転花村萬月氏の作品は好きで、それなりに手に取ってきましたが、『風転』に関しては、文庫本になった時に購入し、上巻を読み終えたところで何故か挫折し、十年以上も読まずに放置してしましました。というのも、この作品は、上巻中巻下巻に分かれる大作で、その分量に圧倒されて途中で放棄してしまったんですね。

従って、主人公であるヒカル少年は作品の中で10年以上も放浪の旅を続けていたことになります。

この作品は、玉川上水に架かる「うど橋」から始まり、九州の桜島で終わります。ヒカルは、東京の自宅をやくざ者と一緒に出発し、バイクで北海道に向かい、そして九州を通りその先の沖縄に向かおうとします。長い旅の間、やくざ者の鉄男から一人前の男になる教育を受け、だんだんと逞しくなる様を描いたロードストーリーと言ってよいでしょう。鉄男とヒカルは、どちらも追われる身であり、出来るだけ目立たぬように旅をつづけ、寝泊まりは公園やキャンプ場に限っています。終盤に鉄男はヒカルに対し、良心と正義について語ります。勿論物語ですし、書かれている内容も現実には起こりえない様な事柄も多いのですが、何故か鉄男とヒカルに惹かれます。もし自分がもっと若ければ、そして鉄男のような人が身近にいれば一緒に旅をしたいと願うでしょう。もし身近にヒカルのような少年がいれば、バイクを連ねて旅に出て、色々と語って聞かせたいと思うでしょう。それほど、鉄男とヒカルが魅力的に描かれています。そして、北海道のキャンプ場で毎日読書にふける生活というのも一度はやってみたいと渇望する自分がいます。

さて、花村氏の作品は読み終えた後の余韻が何とも好きなのですが、この作品については余韻はさほど感じずに、北海道のキャンプ場の場面が実に魅力的に感じました。少し長すぎたのかな。しかし、間違いなく好きな作品です。

『対馬丸』

2016.01.21

対馬丸大城立裕氏の『対馬丸』を読んでみました。対馬丸事件はおぼろげながら知ってはいたのですが、事件だけに着目すると上辺だけの遭難事件としか受け取れません。一方本書では、事件に至るきっかけとなった、旧日本軍が発した疎開を促す通達、そして通達を出すに至った当時の戦況が時系列で細かに書かれています。そして巻末には通達の原文がそのまま転記されています。また、犠牲者の名簿も余さず記されています。このような周辺事象まで細かに書かれた本書は、記録として大変貴重です。

事件の発端ともなった、戦時中の疎開については詳しく知りませんでした。しかし、軍部からの通達文を読む限りは決して強制されたわけでは無かったようです。出来る限り軍部の通達に忠実に疎開を進めたいという思いと、当時公然となっていた奄美列島付近に配備されていた米潜水艦による攻撃を心配する思いが交錯する様子は痛いほど理解できます。疎開学童を取りまとめなければならない立場の国民学校の校長が苦悩する様子も写実的に描かれています。

その一方で、転々とする疎開船の出発時刻に業を煮やして帰宅してしまう者もいたようで、良い意味でのいい加減さによって助かった者もいたのかも知れません。

ただ、多くの幼い命が奪われてしまったことに間違いはありません。もし、疎開船であることを米潜水艦に知らせる術が有りさえすれば対馬丸事件そのものが起きなかったのかも知れません。いずれにせよ事件や事故を防ぐためには正しい知識と確かな情報の収集と伝達が重要であることを改めて認識させられます。

先の大戦については、これからも語り継がれるべきでしょうし、反芻し何度も検証する必要があるのでしょう。単に戦争反対という上辺だけを唱えるのではなく、なぜ起きたか、どうして起きたのか、回避する手立ては本当に無かったのか、そして生き延びるためには何が必要なのかを考察することこそが大切なのではないでしょうか。

『イグナシオ』

2016.01.14

イグナシオヤクザもの等の暴力描写の多い作品は嫌いです。でも、何故か花村萬月氏の作品は好きです。今回読んでみた『イグナシオ』は、冒頭からバットで人を殴り殺す場面から始まります。

著者自身が明らかにしている事ですが、著者は幼くして父を亡くし、素行に問題が有るとして、養護施設に預けられます。『イグナシオ』の他にも『ゲルマニウムの夜』も養護施設が最初の舞台となっています。施設に預けられた主人公は、恐らく著者自身が投影されたものなのでしょう。

『イグナシオ』とは、主人公の洗礼名です。物語はイグナシオが施設で殺人を行う場面から始まります。主人公イグナシオは、その明晰な頭脳から生み出される策略によって警察の目を欺き、結果、事故扱いとなります。そして、イグナシオは施設を抜け出し、新宿に向かいます。そして、新宿でヤクザの大谷と知り合い、半ば強制的に大谷の異母兄弟である茜と同棲を始めることとなります。

茜との同棲生活の中でイグナシオは茜の背負った宿命を知る事となり、その宿命はイグナシオが施設で起こした殺人とも通じたものでした。イグナシオは茜に代わって茜の恨みを晴らし、同時に、施設の中で関係のあった文子の恨みをも代わって晴らします。

自分の恨み、茜の恨み、文子の恨みを殺人という手段で次々と晴らし、そしてイグナシオ自身は大谷の手下の凶弾に倒れます。

そして、物語は小さくまとめられた後日談で終わります。花村氏の作品の魅力は、暴力に理由が有り、宗教観が絡んでいるところにあります。そして、結末に混ぜ込まれた一筋の未来、平穏な日常への回帰、この余韻作りがじつに上手いです。この作品も著者の傑作の一つです。

『きれぎれ』

2016.01.08

‏きれぎれ一つ一つの料理は美味いが、全体ではなんだか解らなくなるコース料理ってありませんか?今回手に取った町田康氏の第123回芥川賞受賞作の『きれぎれ』もそんな感じです。

はっきり言いましょう、私はこのような小説は苦手です。書き出しは面白いし、その他の部分だって、数ページごとに限って言えば面白いんです。だけど、全体にはなんだか訳がわからない。登場人物が多いわけでもなく、難解な言い回しが多用されているわけでもなく。

だけど、全体を通してなんだか訳が分からない。

正直苦手です。

今年の正月は

2016.01.05

51ENhJArtYL今年の正月休みは、近所に散歩する以外はほとんど家にいました。ここ数年では珍しく家族揃っての正月休みでした。少し恥ずかしいのですが、家族と過ごす正月はこれに勝るものを知らぬほど良いものでした。数年前に、正月を旅先で過ごした事も有り、これも家族と一緒という意味では良いものでした。恥ずかしながら、この齢にしてようやく家族のありがたみを知った思いです。

そんな正月休みですから、特にこれと言ってすることもなく、暇に飽かせて大作映画を見ようと思い立ちました。そして手に取ったのが『アラビアのロレンス』です。1962年の制作ですから、半世紀前の作品です。一度はテレビ放映用に編集された短縮版しか存在しない状態でしたが、デビット・リーン監督自身の手により散逸したネガを集め、失われた音声トラックを出演者自身によるアフレコで補い修復されました。今回見たものは修復されたものです。全編207分。三時間を超える大作です。

話は、主人公であるイギリス軍将校トーマス・エドワード・ロレンスが特命を受け、アラブで反乱軍を組織し、アラブを統治していたオスマン帝国からアラブの地を奪還し、アラブの統一と独立を図るのですが、あと一歩の所で英国とフランスの二国間で交わされた条約により、一度は約束された統一と独立は反故になり、アラブの地はまたもや分断され、植民地に甘んじる事になります。アラブに尽くしたロレンスは失意のまま英国に帰る事になります。

実際、T.E.ロレンスは、イギリスでは英雄ですが、アラブでは裏切り者として見られています。

ディテールはともかく、この映画は概ね事実に即したものです。現在も燻りを見せているパレスチナ問題もこの時に端を発していると言えるでしょう。こういった時代背景も頭に置きながら見る映画というのは良いものです。『アラビアのロレンス』も然りですが、1960年代の映画というのは素晴らしく良いものです。他にも『グランプリ』『ドクトル・ジバゴ』あたりが好きですね。

さて、年があらたまってあっという間に町は日常に戻りました。たった数日前までの年始の何とも嫋やかな日々は何処かへ消え去ってしまいました。願わくば今年は「まほろか」でありたいと思います。「まほろか」とは理想的なとか素晴らしいという意味が有るのですが、私は少し違った解釈をしていて、「思うまま」と解釈しています。万事如意、そして「まほろか」に在れ。これが今年の願いであり目標です。

年賀状は出しません

2015.12.28

もう、何十年も年賀状を出していません。言い訳ですが、知り合い全てに年賀状を出すのが筋なんでしょうが、結局は出す人と出さない人がいて、なんでこの人に出してあの人に出さないのかと言われても何となくなんですね。何となく区別するのもいやですし、区別されるのもいやですから、年賀状は出しません。

こんな風ですから、もらう年賀状も少なくって、寂しいか?と問われれば少しさびしいのですが、悔しいか?と問われれば、「別に」なんです。その程度です。もらったとしても、せいぜい松の内が意識している範囲で、松が取れたら全然忘れているわけですよ。まあ、その程度です。それから、年賀はがきって不経済じゃないですか?ありきたりの当たり障りのないことを書いて出すだけで1枚54円。100枚出したら5400円。印刷なんか出したらもっと高くなるだろうし、宛名書きの労力も結構なもの。

以上は言い訳。一言で、真意を言おう。「めんどくさいんだ」

アジア『罰当たり』旅行

2015.12.16

bachiatariYouTubeにテレビ放送を録画した映像をアップロードすることは放送著作権の問題が有るとは思うのですが、見るだけならばそんなこと知った事ではありません。とくに目的も無くYouTubeにアップされた動画を見るのは殆ど日課となってしまいました。

そんな中で”クレイジージャーニー”というテレビ番組を見つけました。極寒の地で徒歩の旅をしてみたり、原住民の村に嫁入りしたり、敢えて危険なスラム街に潜入したり等々とにかく常識では考えられない様な旅をしてきた人々をゲストに迎え、映像を交えてクレイジーな旅の様子をレポートする番組です。そんなクレイジージャーニーという番組の準レギュラーといっても良いほど出演数が多い丸山ゴンザレス氏の著書、”アジア『罰当たり』旅行”を手に取ってみました。

危険と言われる場所に敢えて出かけていき、時に沈没し(旅先でだらだらと長期滞在すること)、時に襲われ、時に同胞の者を助けと、大活躍の丸山氏の生のレポートが実に面白いです。この手の旅行記は珍しくなく、似たような書籍は数々あるのですが、殆ど全ての旅行記で最も危ないとされている南アフリカのヨハネスブルグでは、さすがの丸山氏も入院を要するような怪我を負わされたようで、それほど危険な場所のようです。その他にも、タイでオカマを買ってしまう話や、突然狂暴になる友達に付きまとわれる話等、常人ではできない様な経験の数々はかなり面白いです。

さて、この本の表紙ですが、カンボジアの寺院で撮られたものであることは本書の中でも書かれているのですが、首の無い仏像の首に自分の顔を載せて写真を撮る事は罰当たりな行為として、厳しく禁じられているようなのですが、そんな罰当たりな写真を表紙に持ってくるところが、『罰当たり』の所以なのでしょう。

本書を読むと、敢えて危険な場所に身を置くクレイジーな丸山氏が極めて常識的に見えてきます。

『初夜』

2015.12.16

初夜短編集が好きです。読み進むときに、「今日はこれを読もう」とか「今日はここまで」というふうに区切りをつけやすいんです。そもそも長編を読むのが苦手なので、軽い感じで読める短編集に手を出すことが多いです。

林真理子氏は、作家の中でもマスコミ露出度が高いとおもいます。その為でしょうか、顔と名前が直ぐに一致するのですが、作品はあまり頭に浮かばないんですよ。これは、単に私の食わず嫌いでこれまで作品を手に取っていなかっただけです。

そんな状況を打破する為に、読みやすそうな短編集をてにとってみました。全体を通じて男女の関係性を描いた作品集で、中々に楽しめる物でした。全ての作品の結末はちょっとだけ毒があって、時に寸止めで終わっており、これをどうとらえるかは読者次第なのでしょうが、私はニンマリとする感じでしたね。男女の愛憎とそれによって生まれるちょっとした妬み、そして結末にちょっとした仕返しができるかも・・・というところで寸止めされるところがニクイですね。

短編小説の備えるべきエッセンスがきちんと盛り込まれている小気味良い作品集でした。非常に読みやすい作品集ですので、読書はちょっと苦手という方にもおすすめできます。

光線は違法なのか

2015.12.11

航空機に向けてレーザー光線を照射人が威力業務妨害で逮捕されました。その他にも、強力な光源を航空機に向けたことで逮捕された人もいるようです。逮捕された人たちは、航空機に向けって執拗に光を放ったと信じたいです。

例えば偶々鏡で反射した光が航空機にあたってしまったような不可抗力については、警察権を使うようなことはしてほしくないものです。その昔、オウム真理教の信者が、銃器の部品を持っていたということで逮捕されたことが有ります。例えば小さなビス一本でも言いようによっては銃器の部品なわけです。

新宿当たりでは何故か道行く人の荷物を検査する警察官の姿を見かけることがあります。確かに危険なものを持ち歩く者を探し出し、必要であれば放棄させ、場合によっては逮捕する行為は公の安全の確保に寄与するものですから、そういった意味では正義なのですが、これが拡大解釈をされ、例えば鼻毛切りハサミを危険物としてみなすことなど無いように願いたいものです。

箱根

2015.12.06

IMG_20151206_114911箱根に行ってきました。東京から近い事も有り、数年に一度は箱根に行くのですが、今年は10月、11月、12月と、ほぼ毎月箱根に行っています。理由は簡単で、とびきり安い宿泊プランが限定販売されていたからに他なりません。

12月という事で、かなり寒いかと思っていたのですが、まだまだ紅葉は残っていまして、冬の入り口といった風情でした。

箱根に行くときは、だいたい車で行くのですが、今回は電車とバスを乗り継いて行きました。バスというと、何となく時間に不正確で不便な印象だったのですが、箱根湯本から各観光施設に向かう乗り合いバスは日中時間帯は概ね10分に1本出ていまして、混みあう事もなく待ち時間もそれほどではなく、快適でした。

箱根というと、小田原に近いという事から、意外と海の幸が豊富で美味です。そして何よりも温泉です。古くは箱根七湯、現在では箱根十七湯と言われているほどバリエーションに富んでいます。その昔、豊臣秀吉が小田原城攻めの際に、将兵の疲れを癒す目的で作ったとされる、太閤の岩風呂も現役です。

そんな箱根を更に魅力的にしてるのが美術館でしょう、最近では小涌谷に本格的な美術館である岡田美術館もでき、丁度私が訪れた時は琳派の展覧会を行っていました。都会の美術館と違って、美術館を出た後の自然豊かな箱根の風景が良い余韻となっています、

そんな美術館の中でも老舗と言っていい美術館が彫刻の森美術館でしょう。屋外展示が中心となった彫刻の森美術館は傾斜地に作られており、入り口から全体を俯瞰しながら個々の作品をめぐる事になるのですが、視野を広げれば、箱根の山々、そして小田原の町と相模湾と実に見事な借景が彫刻たちの良い背景になってくれます。いい場所です。

 

スマホの感度

2015.12.03

アンチアップルな私はアンドロイドOSを搭載したスマホを使っている。アンドロイドの設定という組み込みアプリが有るが、設定の中の端末情報→端末の状態→SIMステータスの順にメニューを開いていくと、電話番号やら電波の強さを表示できる。

電波の強さは、-〇〇dbm 〇〇asuといったふうに2つの数値で表示されます。さて、実際に私のスマホの数値を見てみると今は-85dbmです。自宅では、うっかりすると-110dbmまで落ち込むことがあります。これって電界強度としては極めて弱いように思います。WiFiだったら、-90dbm位がまともに通信できる限界と感じているのですが、それよりも更に低い電界強度で通信できるスマホというものは素晴らしいとおもいます。ただ、やはり携帯電話の方も-100dbmあたりから、特にIP電話を使っていると著しい通話品質の低下を感じます。

これは私の勝手な想像ですが、デザイン優先のスマホはアンテナに割くスペースを犠牲にし、結果として通話品質をも犠牲にしているのではないでしょうか。昔の携帯電話の様に、引き出し式のアンテナを取り付ければ通話品質が改善するのではないでしょうか。とはいっても、あの飛び出すアンテナによる事故というのも少なからずありましたので、いまさら飛び出すアンテナを取り付けることはできないのでしょうけど。

MVNOにハマる

2015.12.02

MVNOのSIMを使いだして2年程になりました。現在使っているのはExciteのデータ専用SIMと楽天モバイルの通話+データSIMです。2社で4枚のSIMの契約をしているのですが、月額費用は合計で2350円(税抜き)と、フューチャーホンを(勿論一台ね)使っていた頃と同等の費用に収まっています。

日本という国は本当に良い国だと思います。総務省がSIMフリー化を義務付け、MVNOの育成に動いたことで先進国の中ではかなり安くモバイル通信環境が整えられるようになったのではないでしょうか。キャリアとしても売りっぱなしで後腐れなしのSIM卸売はインフラ整備が遅れたソフトバンクを除いてはおいしい商売なのではないでしょうか。

ただ、困ったことも有ります。キャリアの販売する電話機と違ってサポートは手薄です。開通の為にAPNの登録を行わなけれなならないのですが、機械音痴の人にはかなり高いハードルでしょうね。それから、最近ではSIMフリー携帯電話機を販売する業者も増えて、各々に魅力的な電話機を出していますから目移りします。しかも、これが結構安かったりしますから次々と買ってしまうんですよね。

恥ずかしながら私も1月の間に2台のスマホを購入しました。そして、現在我が家には8台のスマホがあります。電話料金が安くなってもこれじゃあね。反省。

『危ない世界一周旅行』

2015.12.01

abunaiもともと、ブログの記事だったものを本にまとめた紀行文らしいです。ですから、一つのまとまった文章というよりは散文をまとめたものといった方が良いかもしれません。世界一周切符(そんなものが有る事すら知りませんでした)で世界中を旅をした、その過程を書いたものです。

それにしても、危ない・・・というタイトルどおり、かなり危険な目にあい、金をだまし取られ、30人の強盗にボコボコにされ、警察はあてにならずと、とにかくめちゃくちゃな旅の記録です。何を好んでと思いますが、中国人のおばあちゃんとの会話こそがこの本で書きたかったことなのでしょう。「それでも、その経験はあなたの宝でしょ?」この一言が筆者の世界一周旅行で得たものなのでしょう。

異国の地で、異国の人とこんな会話をした筆者がうらやましくて仕方がありません。

『寂庵だより』

2015.11.25

寂庵だより何となくとげとげした世の中に、何となく嫌気がさしてきて、何となく疲れた時にこんな本がいいですね。癒しとは少し違って、過ちは過ちとして、苦しみは苦しみとしてありのままを受け入れる事だと教えてくれているような気がします。

著者は瀬戸内寂聴氏で、恐らく知らぬ人はいないでしょう。突然出家(本書中では出離と書かれています。言葉の意味としては出離がふさわしいです。)した作家で、剃髪得度された後も精力的に作家活動をされています。本書の中にも書かれているとおり、作者は嘗てさまざまな過ちを犯し、その事柄についても触れられていますが、それさえ清々しく感じられるほどすべてを受け入れるという事こそが人の生きる道であると教えてくれます。かと言って説教じみた部分は全くなく、時に怒り、時に笑い、海外旅行もし、酒を飲み、肉を食らう。そんなありのままの生身の人間の部分も描かれています。

この本を読んで、少し高みから人の営みを俯瞰して観る観察眼を持った人なのだと感じさせられます。少しだけ視点を高く持ち、少しだけ俯瞰する。それこそが全てを受け入れるという事なのではないかと思わされました。そんな視点を持つための一つの修業が本書でも書かれている写経という行いなのでしょう。中学生の時に高田好胤先生から写経を進められ、その時は面倒くさくて写経なんてやる気もせず、これまで一度も写経をしたことはありませんが、この本を読んで写経をしてみたくなりました。

『黒田如水』

2015.11.17

黒田如水は隠居してからの呼び名で、黒田官兵衛という呼び名の方が今日では一般的かもしれません。さて、今回手に取りましたのは、坂口安吾氏の短編です。坂口安吾氏は『二流の人』でも黒田如水について書いており、余程好きだったのでしょう。『二流の人』と本作品のどちらが先に書かれたものかは知りませんが、根底に流れているのは、天下人である織田信長、そして豊臣秀吉という二人の武将に仕え、徳川家康とも繋がりのあった黒田如水の不遇です。

坂口安吾氏は、その不遇の原因は黒田如水が軍師としてあまりにも有能であったため、特に豊臣秀吉からは重用されつつも疎まれていたことが描かれています。もちろん、本人に取材して書かれたものでないことは明らかなのですが、息子長政を信長に人質として取られた事を以っても、如水があまりにも有能であったが為に、寝返りを恐れられたのでしょう。

結局、関八州征伐で如水が徳川に寝返った事を匂わせて本作は終わります。大阪の陣はややもすれば黒田如水の進言だったのかも知れません。

黒田如水に関しては、色々な見方ができる人物と思います。その軍師としての才覚だけを見れば天下人となっても不思議では無かったのかも知れませんが、逆に天下人を動かすことに喜びを得ていたのかも知れません。晩年は嫌っていたはずの茶の湯にも通じ、趣味人として隠居生活を楽しんだのでしょう。戦国の武将としては晩年極めて穏やかな日々を過ごした、どちらかというと戦国武将らしからぬ人だったのかもしれません。

『南方郵便機』

2015.11.13

南方郵便機サン=テグジュペリ氏の作品は、文法的にかなり高度で、翻訳が難しいという噂を耳にしたことがあります。代表作である『星の王子様』に関しては多くの翻訳本が出ていますが、中には誤訳を含んでいるものも有るらしいです。

今回手に取りました『南方郵便機』は、サン=テグジュベリ氏29歳の時の作品で、作家としてのキャリアが短い時に作られた作品という作品も有るのかも知れませんが、翻訳もあまり上等とは言えないのかもしれません。極めて読みにくい作品です。テイストとしては、『夜間飛行』に似ているのですが、とにかく読みにくい作品でした。

話はヨーロッパとアフリカを結ぶ郵便飛行機乗りの話と彼らが引き起こす駆け落ちの行く末を描いたもので、恐らくは作者の実体験に基づくものではないかとおもいます。作者自身、常に愛人に囲まれる生活を送っていたとの証言も残っています。また、『夜間飛行』と同じく主人公である飛行士ベルニスは最後に砂漠に墜落し命をうしないます。

正直なところ、私の好きな作品ではありません。

『復讐するは我にあり』

2015.11.04

復讐するは我にあり昭和38年から39年にかけて起きた実際の事件を取り扱った作品です。この作品は今村昌平氏の手により映画化もされています。かなりの大作で、映画では恐らく省略せざるを得なかった部分も多かったのでしょう。特に犯人である榎津巌の獄中での生活や、榎津巌が唯一逃避行の道連れとした染谷勢以子による後日談は映画では全く描かれていなかったように記憶しています。

題名の『復讐するは我にあり』という言葉は、新約聖書のローマ人への手紙からの引用で、「主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん」と続きます。つまり、復讐するのは主である神のみが行うのであると記されています。この題名にもなった『復讐するは我にあり』とは、著者である佐木隆三氏が本書を記すに当たっての決意ではないかと想像します。つまり、犯人である榎津巌への感情移入や被害者やその家族に対する感情移入すらなく、淡々と事実のみが述べられています。(勿論、読み物であるから、脚色も有るでしょうし、事実と異なる部分があることも想像に難くありませんが。)善悪の判断すら著者は神に託したという事ではないでしょうか。

だからこそ、作品中に収められている検察と弁護士の弁論や留置所の看守メモが際立ちます。まるで、榎津巌が収監されるまでは色彩の無い記録で、収監されてから後の部分がそれに反するように色彩を帯びた物語のように感じました。しかし、これが現実に起きた事件というところが何とも重い気分にさせられます。

※今回読んだのは、2007年に著者自身の手によって改訂された改訂版です。

『ふたり』

2015.10.22

ふたり私には映画を見るという習慣が無いのですが、大林宣彦氏の映画は概ね欠かさず観ています。そして、原作のある映画の場合、ほぼ確実に原作を読んでから映画を見るようにしています。しかし、今回手に取った『ふたり』に関しては珍しく映画は何度も観ており、DVDも購入したのですが二十年以上も原作を読んでいませんでした。そもそも赤川次郎氏の作品があまり好きではないという理由もあります。赤川次郎氏の作品を嫌いになったきっかけになったのは『晴れ、ときどき殺人』で、原作も映画もどうにもいけませんでした。そもそも井筒監督の映画が押しなべて嫌いというのも理由の一つとしてあるのかもしれません。

『ふたり』を読んで感じたのは、大林宣彦氏の力量でしょう。原作と映画で異なるのは舞台となった場所が原作では東京(恐らく世田谷が杉並あたり)が映画では広島に代わっていることくらいです。もちろん細かい事を挙げれば色々とあるのでしょうが、話の筋は殆ど原作のままです。

ふたりの姉妹、姉の千津子と妹の美加を描いた作品です。姉の千津子は不慮の事故で妹の美加の前で命を落とします。しかし、千津子は事故の後も美加の中で生き続けます。友人の父の死も、母の治子の入院、そして父の不倫も全て二人の姉妹が一つとなって乗り越えます。そしていつか、美加の中からいなくなってしまった千津子との事を美加は小説として残す決心をします。その小説の題名を『ふたり』とするところで話は終わります。

まあ、この手の入れ子になったような終わり方というのはいくらもあって、『スタンドバイミー』、『奪取』、『重金属青年団』等々枚挙にいとまがないでしょう。くさい終わり方です。個人的には大嫌いな終わり方です。最後の1ページが別の形だったらもっといい作品になるのにと思います。

厳しい言い方をすれば、結末の1ページが無ければと悔やまれる作品です。と、言いつつも映画は何度も見返しているんですけどね。文句をつけつつも好きな作品なんですよ。

『河童』

2015.10.16

言わずと知れた芥川龍之介氏の代表作です。精神を患った者が語った事を物語としたという一文から物語は始まります。見方によっては、河童の話を語るその人こそが著者である芥川龍之介氏自身なのかも知れません。このあたりは『妙な話』と併せて読むと何となく事情がつかめるように思います。

物語は男がある日沢伝いに山を目指す途中で河童を見かける所から始まります。河童を追いかけていた男は穴に転落してしまいます。転落し、気を失っていた男を介抱してくれたのは河童たちで、その場所は河童の国でした。男は河童の国でしばらく暮らすこととなります。そこには、人間世界と同じように実業家、哲学者、医者、学生、作家など様々な身分の河童がいます。しかし、ある日男は人間世界に帰る事を欲し、人間世界への縄梯子を延々と登り人間世界に帰ります。しかし、帰り着いたその場所は精神病院でした。

何となく、現代版の浦島太郎と言えるかも知れません。